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カンボジアでフリースクールをやってます。 スタッフと私の奮闘記です。
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↑ 8月に遊びに来てくれた方に、送っていただいた写真です。
 子ども達と、特に大家さんに人気で、
 いまだに、大家のおばさんが、おもしろい人だったと、話しています。
 文房具、いろいろとありがとうございました。
 
ネットの調子、よくなって、これからは前と同じ、
ハイペースで書いてきます。

でも、別にフリースクールとは関係ない話題で。
しかも、明日までなんですが、
私の田舎、山形では、国際ドキュメンタリー映画祭というのが、
2年に1回行われていて、今年がその年。
それで、上映期間が明日までです。

一応、出品作より。

開催中の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」で、
今話題のワーキングプアー問題を、
身をもって体験したユニークなドキュメンタリー『遭難フリーター』が、
日本ドキュメンタリーの新作を上映する
「ニュー・ドックス・ジャパン」部門で上映された。

同作品を1人で作りあげたのは、
宮城・仙台出身の岩淵弘樹監督(24)。
岩淵監督は大学卒業後、あこがれの東京を目指して、
まずは埼玉・本庄市で資金を稼ぐことに。
平日は、某大手企業の工場で、時給1250円の単純労働をし、
土日はインターネットカフェで寝泊まりしながら、
東京で日雇いの肉体労働という日々。
しかし、大学時代の奨学金約400万円と
2003年に「人間の盾」としてイラクへ飛んだ際の
渡航費50万円という借金の返済を抱えた身では、
ちっともお金が貯まらない。
映画は、そんな煮え切らない日々を、
ビデオ日記としてつづったものだ。

岩淵監督は「日雇いの派遣をしている間に
“就職しない若者”の代表のように
マスコミの取材を受けた様子も映画に盛り込んでいるが、
自分の言いたいことが伝わってないような気がして、
このビデオ日記のように撮っていた映像を映画にしようと思いました」という。

製作費は約3万円。
2か月かけて編集した初監督作が、
映画祭に招待されるという快挙を成し遂げたのだが、
岩淵監督は現在、地元に戻り、時給850円のフリーター中。

映画祭参加用のポスターなどの制作費4万円と、
山形までの旅費2万円を祖父に借金してやって来た。
宿泊費を節約するため、
ここでもインターネット・カフェのナイトプラン(9時間で1680円)で寝泊まりと、
山形でも“遭難”中であることを激白。
舞台あいさつでは「そこのネットカフェはシャワーがなく風呂に入ってません。
今日は映画の上映で緊張して汗をかいたので、体がべたべたしています」と語り、場内の爆笑を誘っていた。

現在、同作品の一般公開は決まっておらず、
岩淵監督も映画監督になる予定はないという。
「やっぱり生活が厳しいし、親に心配かけられないので、
普通の企業に正社員として就職し、
落ち着いた生活をしたい」と野望を語っていた。

もし、この時期を逃しても、
山形にある、フィルムライブラリーで無料で見られます。
http://www.yidff.jp/library/library.html

私も高校の時、クラス内で抽選でもらえるチケットのはずが、
なぜか私の手元には、チケットが何枚も。
連日、通ってました。
今でも、映画で一番スキなのは、ドキュメンタリーです。

先日、大学生の方が、卒業制作のドキュメンタリー映画の撮影で、
近くのごみ山で活動している団体の活動を撮りに来ていて、
我々のフリースクールも、ちょっと出演しているようです。

1月に完成予定といっていたので、
日本に帰った時に見に行くのを楽しみにしています。



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↑ ちょっと画像乱れ気味ですが、
  今の子どもたちの様子を伝えたかったもので。
  先生やボランティアの人たちも一緒です。

書ける時に書いておかないと、いつ書けなくなるか、分からないので。

先日、出張の人たちが来ていたので、
会社の日本人マネージャーたちとご飯を食べに行った。
住んでいるのが港町なので、
海辺のホテルで、シーフードで舌鼓。
いやー、おいしかったですわ。

で、その後に、カラオケに行った。
こっちのカラオケは、普通にカラオケをするファミリーカラオケと、
女の子が選べる一般カラオケ
(ベトナムに詳しい人がそういう言い方をしてたので、引用)の
2タイプがあって、行ったのはその中間(いや、一般よりか?)。

まあ、もれなく女の人がついてくるのだが、
特に選ぶわけではなく、
適当な女の人が、適当な人の隣に座って、
ちょっとした日本語とか英語で話したり、
お酒を注いだりしてくれるもの。

隣に座った女の子が、そのまた隣の日本人と私の世話をしてくれる
(と言っても、日本語も英語もあんまりなので、
お酒を注いだり、カラオケの番号を入れてくれたりする)ことに。

でも、微妙に動きがかたくて、
隣の日本人に、ちょっと手があたった日には、
思いっきりビクっとしてるし。

つたないベトナム語と、ベトナム語会話集をフル活用して、
話してみたところ、お客さんにつくのは、その日が初めてだと。
緊張して、こわい・・・と言っているので、
取って食べたりしないから・・・とは言ってない。
この中に悪い人はいないから、心配しないで・・・と励ましてみる。

が、時間を重ねるにつれ、私の方に少しずつ密着。
やはり、男の人が怖い模様。

まあ、そのまま、会話集をフル活用した会話で、時間が終了。
また、来るね、と挨拶をして、家に帰った。

次、会うときに、どうなってるか、ちょっと心配なような、楽しみなような。

将来、東南アジアにキャバクラを作るのが夢の、私。
(あくまでも、一番は、フリースクールの存続と職業訓練校開校だけど)
人間観察は止められない。



↑ 9月にボランティアに来てくれていた大学生が
  特別授業で、習字を教えてくれました。
  重いのに、日本から習字道具も持ってきてくれてました。
  今まで、会話や文法を中心に勉強してましたが、
  子ども達も、俄然、書くほうにも、やる気が出てきたみたいです。

日曜日に、スピーチコンテストの2次審査があり、
今はちょっと一区切り。
ゆっくり書き込みができます。

2次審査に進んだのが、全部で20人で、
その内、6人が、自分の学生。
でも、本選に出られる9人に選ばれたのは、1人だけ。
残念だけど、働きながら、よく練習したな、と
どちらかというと、頑張ったという気持ちのほうが強いかも。

うちらのメンバーは、
覚えたことを言うので、精一杯。
審査員のほうを見ることも、ままならない感じで。

一方、他の参加者は、大きい声で笑顔、
しかも、華麗に踊ってた
(いえいえ、それぐらいのジェスチャーだったということで)。

でも、スピーチは本当にたどたどしかったんだけど、
作文の内容は、お褒めの言葉をいただいて、
学生たちもちょっと喜んでた。

さて、その中で、「橋」というタイトルで、スピーチをした学生が
いるんだが、審査員の偉い人曰く、タイミングが悪かったね、と。

先月、ベトナム南部で、日本の建設会社とベトナム人労働者と
中国人作業員が、共同で作っていた橋が落ちて、
50人以上の人が亡くなったそうだ。

日本では、ニュースで報道されていたみたいだが、
どうしても、ミャンマーのほうが大きく報道されていて、
ベトナムの事故は、それほど大きい扱いじゃなかったそう。

審査員の偉い人が言うには、
現地駐在員や在住の日本人たちで、
必死で義援金を集めているそう。

ちなみに、自分の学生のスピーチの内容は、
8月の終わりに書いたもので、
日本とベトナムは、今とてもいい関係で、
いろいろな橋を一緒に作っている。
その橋のように、日本とベトナムの間には、
いい関係の橋が出来ている。
そして、その橋がずっと長く続くように、
みんな努力をしようというもの。

確かに、タイミングは悪かった。
でも、それ以上に、スピーチのレベルもまだまだだったんだけど。

先週は、ベトナム北部に来た台風のせいで、
ある村で、50人以上の人が死んだそう。

ちょっとベトナムも方角が悪い時期に来てるのだろうか。
インドネシアのように、大変にならないといいんだけど。
前回の続きで。

スピーチコンテストに参加したいと言うソレンさんの作文添削開始。
とりあえず一読して。

ちなみにタイトルは、どうしたらカンボジアに来る観光客増えるか、
というもの。
さすが、当時、観光学科の大学生だけあって、
なかなかの選択。

読んで、なんとなく日本人が好きそうな感じの作文だな、と思ったけど、
事実ばかりが多くて、ちょっとガイドブックのような印象。
とりあえず、もうちょっと自分の体験談や
問題点や改善策などを考えさせて、
もう1回次の日に持ってくるように指示。

ちなみに、この段階で、私はスピーチの条件(字数制限、時間制限)を
まるで把握していないんだけど。

でも、日曜日はソレンさんのために、1日あけるから、
できたら、電話をかけて、すぐに来い!!と。

にしても、カンボジア人(っていうかソレンさん)、
変なところで自信があって(いい意味で)、
明日の午前中まで、持ってきます、と言って、家路へ。

そして、ソレンさんが帰ったあと、
同僚の人とまた大笑いと苦笑いの間ぐらいの笑い。
さすが、カンボジア人、なんて言いながら。

私も正直、この段階で、ちょっとムリかな・・・、
でも、できるだけ、やってあげよう、と。


↑ 定期的にゴミ山の様子は掲載してますが、
 今まで、私がゴミ山に行ったのは、だいたいが乾季か
 晴れの日が続いている時。
 雨の後は、足元がぬかるんで、大変なことになります。
 ゴミ山で活動をされているNPOの方の話によると、
 今は、雨季で、活動が大変だということです。

さて、タイトルがタイトルですが。
これは、インド人から聞いた話を元に。
インドの雑誌で5,6年前に書かれて、かなり話題になったそう。

今回、ブログを書くのにあたって、ちょっと調べて、
肉付けしておきました。

インドの私が住んでいた都市は、インドで3番目の都市。
この都市の郊外にビリバッカム村という村があり、
いわゆるセミスラム。
その村は、外国から腎臓村と言われて有名らしい。

なんだ、腎臓村と思われると思うが、
この村の大人の多くの人が、腎臓が片方ない。
けっして、そういう人種ではなく、
理由は、みんながみんな臓器移植のために、
外国人に腎臓を売ったから。
この村を中心に周りの村を合わせると、
腎臓を売った人は数千人になるそう。
売った人の中には14歳の子どももいるそうで、
約60%が女性。

インド自体は、水面下ではなんでもありで、
下層では、人体実験や臓器売買など、
お金の為に、裏ルートの仕事がいくらでも存在する。
薬の治験なんかのおかげで、
いい薬が安く作れたりして、他の国も恩恵を受けてたりするのだが・・・。

腎臓を1つ売ることで、
家族4人ぐらいで、10年生活していけるという話を
前に聞いたことがあったが、
実際の話では、
その村は、収入が少なく、平均で800ルピー程度で(1RS=2、6円)
受け取った金額は、6,000~27,000ルピー。
この額、安すぎないだろうか。

売った理由に関しては、借金返済や生活費、
家や土地の購入、それから、娘の結婚の持参金などが、あげられる。

でも、その雑誌を見たインド人曰く、
写真を見る感じでは、意外と元気そうで、楽しく暮らしていたそう。

インドは本当にいろいろな人がいる。
自分が仲良くしていた、近所の空き地に住んでいた子どもは、
よくゴミを拾ってきていた。
それでも、元気で明るく生活していた。

いろいろあって、人生。
でも、早くみんなが平等に幸せになってほしい。



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